さんかく問屋街の歴史ー街道沿いに集まった人々、
そこに生まれた問屋街

▽21

まちには個性があります。文化を発信する繁華街、働く人が集まるオフィス街、静かな住宅街…。
多くのまちは、いろいろな理由が重なり、人の営みが集積した結果としてできたものです。
さて、さんかく問屋街はどうでしょう。どうして「さんかく」なのか? どうして「問屋街」なのか?
この記事では、さんかく問屋街のある、馬喰町、横山町、橘町の3つのまち周辺の歴史をご紹介します。

書き手:内海皓平

江戸の一角として

話は今から400年前、江戸時代のはじめにまで遡ります。日本橋地区の発展の理由を語るのに欠かせない「2つの橋」がありました。地名の由来となった「日本橋」と、隅田川にかかっていた「両国橋」です。

街道の起点、日本橋

江戸のまちは、徳川家康が1603年に江戸幕府を開いたときに作り始められました。
「日本橋」はその時に架けられた橋と言われています。1604年には、日本全国と行き来する「五街道」の起点と定められました。全国からものや情報、文化が集まり、発信する地となっていきます。現「さんかく問屋街」周辺は、そんな「日本橋」から近く、また「日本橋」から北の方へ伸びる「日光街道」「奥州街道」の途上でもありました。

歌川広重「東海道五拾三次内日本橋朝之景」東京国立博物館蔵国立文化財機構所蔵品統合検索システムより東京国立博物館蔵国立文化財機構所蔵品統合検索システムより東京国立博物館蔵国立文化財機構所蔵品統合検索システムより東京国立博物館蔵国立文化財機構所蔵品統合検索システムよりhttps://colbase.nich.go.jp/collection_items/tnm/A-10594?locale=ja

日本橋はその後何度も架け替えられ、現在の日本橋は1911年に完成、国の重要文化財指定を受けている。上を通る首都高都心環状線は地下化することが決まっている。

賑わう両国橋

現「さんかく問屋街」の西側、隅田川に架かっていた「両国橋」は、その名の通り2つの国、すなわち「武蔵国」と「下総国」をつないでいました。東京の東側と繋がる交通の要衝となっていったわけです。「両国橋」が架けられたのは1660年前後のことです。きっかけとなったのは1657年の「明暦の大火」。火事が多かったと言われる江戸でも、特に規模の大きかったものです。

当時は隅田川の橋は上流の「千住大橋」しかなく、多くの市民が逃げ場を失って犠牲になりました。その教訓から生まれたのが「両国橋」です。両国橋の西側には、火事の延焼を防止する「火除け地」としての役割も持った橋詰の広場が作られました。「両国広小路」と呼ばれたこの広場は、見せもの小屋や飲み屋が集まる娯楽街になりました。

このようにして、現「さんかく問屋街」周辺は、人が行き交い集まる場所になっていきました。

葛飾北斎「富嶽三十六景 御厩川岸より両国橋夕陽見」

東京国立博物館蔵国立文化財機構所蔵品統合検索システムよりhttps://colbase.nich.go.jp/collection_items/tnm/A-11176-4?locale=ja

墨田区側から見た現在の両国橋と隅田川河畔。両国橋の位置は当時より上流に移動している。

市と寺

「馬喰町」の名前の由来は、馬の仲買人「博労」(ばくろう)が住んでいたことから、と言われています。江戸初期から明治に至るまで、馬市が開かれていました。

『江戸名所図会1巻』より「馬喰町馬場」https://www.library.metro.tokyo.lg.jp/portals/0/edo/tokyo_library/modal/index.html?d=5662

また、現東日本橋のあたりには、江戸初期には西本願寺の別院である「浅草御堂」がありました。1621年に創建、明暦の大火の後に築地へ移転(現「築地本願寺」)しました。門前に立花を売る店が多かったので、町名を「橘町」としたと言われています。「橘町」の名前は住居表示改正に伴い「東日本橋」に改められたものの、「橘通り」に名を残しています。

なぜ「さんかく」? 〜3つの道〜

「さんかく問屋街」の特徴的な形にも、江戸時代の名残があります。北を上にした地図で見ると、斜めに傾いたマス目状の街区になっています。

「さんかく問屋街」の南を走る「江戸通り」(京葉道路)は東京駅から浅草、言問橋まで結ぶ通り。また、北側を走る「清洲橋通り」は、入谷の方からやってきて、清洲橋で隅田川を渡り、江東区東砂に至る通りです。これは、江戸時代の初めに作られた町割がそのまま残ったものです。

それに対し、「さんかく問屋街」の東側を走る「清杉通り」は角度が違うように見えます。
実はこの道路だけが新しいのです。今から100年前、1923年の関東大震災では、日本橋周辺でも多くの建物が被害に遭いました。その後、災害に強い東京を作る復興事業で開通した道路の一部が「清杉通り」です。この道路の完成により、「さんかく」が生まれました。

問屋街としての変遷

立地を生かした商売

大正期になると、交通網の発達により大きな変化が訪れます。
都市間を移動できる鉄道網の発達により、街道を利用する人は減少。1914年の東京駅の開業により、東京の交通の中心は、少し離れた東京駅になりました。宿泊の需要は減り、旅館街は次第に衰退します。中には問屋に変わった店もありました。取り扱い品目としては土産物が減少。かつて娯楽街だった橘町も商店街の性質が強くなっていきます。このような経緯の中で、一帯には衣料品や生活雑貨を取り扱う問屋が増えていったようです。

しかし、立地的な優位性が小さくなったことは問屋も同様です。人が通り過ぎて他へ行ってしまう状況になりました。1923年の関東大震災も追い打ちをかけます。問屋街の多くの建物や商品が被害を受けただけでなく、経済や社会が不安定化。以前のように呼び込まなくてもお客さんがどんどんやってくるような時代ではなくなりました。

その頃の「運命共同体意識」から生まれたのが「横山町奉仕会」の前身、「横山大通り聯合奉仕会」です。一帯の問屋が連携して、売り出しや優待券など、お客さんに通ってもらうための取り組みを始め、徐々に知名度が上がっていきました。

ここで一度軌道に乗るものの、第二次世界大戦下の戦時統制で問屋が機能しなくなり、奉仕会は解散。さらには空襲による焼失で大きな打撃を受けました。

再び立ち上がる問屋街

戦後、問屋が再び「横山町奉仕会」として団結し、焼け跡から復活したのが現在の問屋街です。
戦前に始めた売り出しや優待券を進化させ、時代の変化に合わせた取り組みを展開し、何度も経済の変化や最近のコロナ禍を乗り越えてきました。

近年はUR都市機構とまちづくりに取り組んでいます。遊休不動産をUR都市機構が買い支え、新たな参画者を問屋の旦那衆と共に招き入れながら問屋街をアップサイクルさせる取り組みが進行しています。2022年にはその仕組みとデザインがグッドデザイン賞を受賞しました。この「さんかく問屋街アップロード」で紹介されているような新しい動きがどんどん出てきています。

参考文献
横山町奉仕会「横山町奉仕会50年史」1983
白石孝「日本橋界隈の問屋と街」文眞社、1997
中央区教育委員会「中央区の昔を語る(二)東日本橋、馬喰町・横山町」、1989

このエラーメッセージは WordPress の管理者にだけ表示されます

エラー: アカウントに接続できません。

アカウントを接続するには、Instagram Feed の設定ページに移動してください。