CETとはなんだったのか?後編:街とCETの源泉

▽16 Asyl佐藤直樹さん、シミズヨシユキさん

2003-2010年にさんかく問屋街エリア周辺で「Central East Tokyo / セントラルイースト・トーキョー(通称CET)」という取り組みが行われていた。ある時は「アート・デザイン・建築の複合イベント」または「空きビル・空き家再生活用プロジェクト」さらに「合法的占拠」とも言われ、さまざまな言葉を用いて形容されながら現在もクリエイティブ業界に語り継がれている伝説的な〈ムーブメント〉だ。

2000年代当時の関係者のインタビューやCETが著した「東京R計画-RE‐MAPPING TOKYO」(晶文社、2004年)を読むと、当時から現在に至るまで変化した街の姿、そして面白いほど変わらないものも多くあることに気づいた。なぜCETはここで行われたのか?変わり、変わらないものがあるのはなぜか?この場所の「におい」を探りながらCETも振り返ることで見えてくることがあるはず。

CETが開催された経緯と歴史をおさらいした前編記事に引き続き、CET発起人であるAsyl(アジール)佐藤直樹さんと事務局スタッフを務めていたシミズヨシユキさんに、馬喰横山の「におい」、そしてCETの源泉に迫りました。

<佐藤直樹 プロフィール>
1961年東京都生まれ。グラフィックデザイナー・アートディレクター・ペインター。 デザイン会社「Asyl」代表。3331デザインディレクター。美学校講師。多摩美術大学グラフィックデザイン学科教授。CETではプロデューサーを務めた他、ほとんどの広報宣伝物のデザインを手がけた。CETが終了した2010年にアートセンター「アーツ千代田 3331」の立ち上げに参画。

<シミズヨシユキ プロフィール>
2003年から2010年までCETの事務局として運営を担当。地元住民、行政機関、アーティストそれぞれの間に入り調整などを行う。

聞き手:勝亦優祐
撮り手:Myra Shimada
書き手:瀧瀬彩恵

よそものを受け入れてできた街

勝亦 CETが街で実験場となる空きビルを探したり交渉する際に、街の不動産屋さんや前編記事でも触れていた元日東リビング社長の鳥山和茂氏の存在があったと聞いてます。

佐藤 馬喰横山駅の近くにある大原不動産は馬喰町〜東神田〜横山町エリアに強く、どんなに小さな物件もくまなく掌握していました。採算度外視で地図を広げながら一緒に街をまわってくれるなど、最初は得体の知れなかったであろう僕たちにも協力的でしたし、何よりCETの取り組みを面白がってくれました。とてもお世話になりました。

シミズ 鳥山さんも街の視察や挨拶まわりに同行してくれたおかげで、自分達が直接街の方と交渉するということはなかったです。地域の事業者の皆さんから小口スポンサーをいただく際も鳥山さんたちが間に入ってくれました。

鳥山氏と物件を視察するCETメンバーら
写真引用:CET

佐藤 鳥山さんは当時、このエリアがもともと「流れ者の居場所」で、よそものを受け入れることで商いが生まれたし問屋街にもなったと言っていました。そんな鳥山さんの思いが僕らを突き動かしていたのかもしれないし、当の鳥山さんも、行き交うよそものと場所の力に触発されていたに違いありません。

佐藤 僕たちに優しかったのもそういう理由だったと思います。音の出るイベントを開催するときも鳥山さんが「音が響くエリアにとにかく挨拶してまわって、何が起きても苦情は出さないようにする」と。苦情対策ってそうやって先まわりして頼んでいくものなのかと(笑)

勝亦 それくらいCETの皆さんの活動に期待して、守ろうともしていたのでしょうね。

佐藤 CET終了以降もどうしようか、とこの辺りに遊びに来る度に鳥山さんと話していました。鳥山さんが2014年に亡くなられたことが、僕にとってこの場所との関わり方の一区切りのようなところはあります。でも時を経て、僕らがここに以前のように来なくなってからも、やっぱり流れ者の土地の気質が続いてることには変わりないんですよね。

CETらしさ=アノニマスな自発性

勝亦 流れ者の気質が流れる街、なるほどです。「東京R計画?RE‐MAPPING TOKYO」を拝読した主な感想として、CETが行われた2000年代と現在で、不思議と「流通形態の変化」「都市開発の進展」という面では、問屋街を取り囲む社会背景が似ているんですよね。

書籍「東京R計画?RE‐MAPPING TOKYO」

勝亦 そして現在も若手クリエイターが集まる動きは確かにあって。何周してもその根っこにあるのは「流れ者の気質」かもしれませんね。積極的な自主性に委ねるというか、臨機応変に決めきらないというか。

シミズ CETの現場では、アーティストやボランティアも積極的かつ自主的な動きを求められるイベントでした。あくまで僕らは「ここ面白いことが出来るよ、一緒にやらない?」という呼びかけ方をしていましたし、ざっくり表現するならアーティスト側も「これをやりたい!ここ使っていい?」「この作品出したいんだけど、こんな場所ある?」といった具合に。

佐藤 その自主性を重んじるやり方を、プロデュースを務めた立場からは今も反省するところが沢山あるのですが・・・だからこそ不思議な現象が起こったというか。CETをCET たらしめていた力の源泉はアノニマスな部分なんです。匿名性が高くて、自然発生的で、もちろん最低限の社会性はあるけれど「社会的な目的や成果」が全てではない。

企画の段取りは清掃を考えるところから。アーティストやボランティアらが自ら清掃を手がけた。CET04時には公式
ショップ「CET-SHOP」としてオープンした同建物は、年ごとに企画内容を変えて活用された。(当時の様子)
現在の同建物の様子。

シミズ わかりやすく「町おこし」みたいな言葉でCETを語ることもありましたが、僕らの目的はそこではなく、「ここ使えるの?面白い!」という単純なもの。目的や方法は関係者それぞれに任されており、それが空き家再生、グラフィックの空間占拠、道の真ん中で遊ぶ、など多岐にわたりました。だからCETは、関わった人の数だけ思いや考え方がある不思議なイベントでした。

隙間含めて新陳代謝を続ける

佐藤 その場で思いついてダメならやめる、成立したら握手する。そういうやり方が大半。そこが計画的な都市開発ともっとも異なるところです。このエリアが発する「におい」もその点にあると思っているのです。

勝亦 ポテンシャルを面白がるというお話を受けて思い出しました。佐藤さんは今日街を歩いていて「ここには隙間があって何かが面白くなるかも」と仰っていましたが、全く同じことを15年ほど前のインタビューでもおっしゃっていました。当時は「凹み」という言葉を使っていました。

佐藤 このエリアには実験を続けている人たちがいて、そういうことが育つ場所だということをもうちょっと顕在化させてもいいかなと思っています。これは昔鳥山さんもずっと言ってたことなんですよ。馬喰横山エリアから少し離れていますが、最後のCETの会場にもなり、CET終了と入れ替わるようにして始まったアーツ千代田3331、そして僕が現在クリエイティブディレクターを務めアーティストとしても参加しているアートイベント「東京ビエンナーレ」も同じひと続きの土壌の上に活動が成り立っていると感じています。

勝亦 馬喰横山もとい東東京エリアには、社会状況が変わっていっても「凹み性」を携え続けるのでしょうね。それは街の動きが停滞しているからというわけではなく、常によそものが流れ着く場所として新陳代謝をし続ける宿命にある街かもしれません。そのにおいを醸し出す風土には心地がよい余白を感じます。

編集後記
これまでも「さんかく問屋街アップロード」で皆さんにこの街に参入した動機を伺っていて、たびたび「すきま」に可能性や魅力を感じている、という趣旨の話が出てきた。言い換えれば、街の動きを作りながら対外的な発信力を持つポテンシャルある人々がいやすい寛容な「すきま」と言ったところだろうか。だからさんかく問屋街は「意志ある流れ者がいやすい場所」とも言っていいかもしれない。

CETもまた、そういった「すきま」を見つけて約8年におよぶ〈ムーブメント〉を作ってきたし、街の状況 ー 課題を抱えた街で、この街を元気にしたい地元の人々がモチベーションを持った外部の人々を受け入れたこと ー がCETのスタンスと奇跡的にマッチしたのだろう。「計画性と場当たり性のバランス関係」と「ルール・仕組みとやわらかい部分のあいだ」で起きる実験は、大規模開発され整備された街で生まれるのは極めて稀、というより不可能に近いだろう。

今も昔も意志ある流れ者の実験精神が育つ余白のある街、馬喰横山。その系譜にある人々を、今後も「さんかく問屋街アップロード」で取り上げていこうと身の引き締まった取材でした。(勝亦優佑)

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