CETとはなんだったのか?前編:CET超概論

▽15 Asyl佐藤直樹さん、シミズヨシユキさん

2003-2010年にさんかく問屋街エリア周辺で「Central East Tokyo / セントラルイースト・トーキョー(通称CET)」という取り組みが行われていた。ある時は「アート・デザイン・建築の複合イベント」または「空きビル・空き家再生活用プロジェクト」さらに「合法的占拠」とも言われ、さまざまな言葉を用いて形容されながら現在もクリエイティブ業界に語り継がれている伝説的な〈ムーブメント〉だ。

2000年代当時の関係者のインタビューやCETが著した「東京R計画-RE‐MAPPING TOKYO」(晶文社、2004年)を読むと、当時から現在に至るまで変化した街の姿、そして面白いほど変わらないものも多くあることに気づいた。なぜCETはここで行われたのか?変わり、変わらないものがあるのはなぜか?この場所の「におい」を探りながらCETも振り返ることで見えてくることがあるはず。
そこでCET発起人であるAsyl(アジール)佐藤直樹さん、事務局スタッフを務めていたシミズヨシユキさんとともに、街に繰り出しながらその「におい」を紐解いてみました。前編記事ではCETが開催された経緯と歴史をおさらいしていきます。

<佐藤直樹 プロフィール>
1961年東京都生まれ。グラフィックデザイナー・アートディレクター・ペインター。 デザイン会社「Asyl」代表。3331デザインディレクター。美学校講師。多摩美術大学グラフィックデザイン学科教授。CETではプロデューサーを務めた他、ほとんどの広報宣伝物のデザインを手がけた。CETが終了した2010年にアートセンター「アーツ千代田 3331」の立ち上げに参画。

<シミズヨシユキ プロフィール>
2003年から2010年までCETの事務局として運営を担当。地元住民、行政機関、アーティストそれぞれの間に入り調整などを行う。

撮り手:Myra Shimada
書き手:瀧瀬彩恵

廃墟化寸前の街にあったカルチャーの萌芽

CETの大元となったのは2000-2006年に青山エリアで開催された「東京デザイナーズブロック」。当時の若手クリエイターらがブランド店舗、飲食店、大使館等を主な会場に実験的な空間利用を試みた企画だ。その際、唯一空きビルとして「青山マンション」が活用された試みに参加していたメンバーが中心となり、同企画の東東京バージョンとして2003年に「東京デザイナーズブロック セントラル・イースト」をスタート。翌年に「セントラルイースト・トーキョー」へ改称した。当時の東東京、こと馬喰横山はどんな街だったのか。

「馬喰横山はある時から繊維問屋に特化しすぎて街が単一機能化してしまいました。2000年代に入ると、問屋を経由する流通システム以外の販路のあり方も生まれるなど、商品の製造・販売のシステムが完全に転換し始めました。だから仕事という目的を持った人しか来なくて、若いおしゃれな人が来る気配は一切ありませんでした。若干廃墟化していたくらいですから。」(佐藤)

佐藤直樹さん

それでも不動産オーナーが土地や建物を所有し続けられる状況があったため、売買需要もなく、新規の都市開発が起きづらかった。だからこそそこかしこに「空き空間」が発生し、それを街のポテンシャルとして目をつけ「ここなら何かできそう」という「におい」を嗅ぎつけたのが佐藤さん含むCETメンバーらだ。そしてそれら空きビルは偶然にもアートやデザイン、クリエイティブな発表の場を必要とする人々との相性がよかったのだそう。

「例えばコマーシャルギャラリーは立ち上げ費用を潤沢に準備できいない場合が多いため、作品展示に適した既存の空間との出会いが必須になってきます。このエリアには賃料など運営費用をできる限り抑えられる『倉庫的空間』、例えば大型作品の搬入が可能な天高のある空間をギャラリーとして使用でき、しかも交通の利便性が高いというメリットもあったので、興味を持った方が一定数いたと思います」(シミズ)

シミズヨシユキさん

「『楽しい場所がある、行ってみよう』くらいの感覚で、現在も国内のアート・デザインのシーンで重要な人々が自然とこの辺りに集まって活動をはじめました。CETはそれを能動的に斡旋したわけではないのですが、自然発生した動向を記録しながら広めていく目的もありました。」(佐藤)
「空き空間」が増えつつあった街も、カルチャーを仕掛ける若手らも、「次に向かう一歩」を踏み出すための萌芽がさんかく問屋街周辺の特性にあった。CETはそのあいだを漂いながら、結果的に街のその後を方向づけた存在だったのかもしれない。

街のスキマを使いこなしていく

佐藤さん、シミズさんとさんかく地帯の内外を歩きながら、CET活動当時と現在の街の風景を比べて話していく。「(さんかく地帯内の)問屋街にも新しいビルが建ったけど、基本的には路地なども当時とあまり変わらないですね。でもその周りは風景が激変しました。僕たちが活動していた頃はそもそも居住者が少なかったので、コンビニすらなかったんですよ」(佐藤)

現在は居住用物件も増えている。やはり街区の小ささゆえの細長い建物が多い。

当時CETに固定の物理的な拠点はなく、街中のさまざまな場所でイベントや展覧会等多種多様な企画が行われていた。実験の舞台となる肝心の空きビル・空き家を見つけ、利用交渉した際は地元の名士、元日東リビング社長の鳥山和茂氏(故人)の人脈とフットワークも大きく寄与。CET事務局メンバーや若手クリエイターが次の実験場として目星のつく場所を見つけると、鳥山氏が物件所有者との仲介役となった。

現在も街のはずれを歩けば、経年変化の多い建物がたくさんあらわれる。CETメンバーらはこういった建物の中に人の気配を見つけたら交渉し、いなければ登記を探して持ち主を探して交渉を重ねていった。狭小の街区が特徴である馬喰横山は開発が入りにくく、部分的な虫食いのように空き家が残ってしまう傾向がある。戦略的に根こそぎ都市開発をできないことを肯定的に活用したのもCET成功の一因だろう。

街が若手クリエイターの実験場に

多種多様な試みからわずかだが紹介しよう。特筆すべきはJR馬喰町駅周辺の地下道で開催された「bakuroAD2004」だ。当時は全く広告が掲示されておらず閑散としていたところに目をつけ企画が生まれた。実は当初、JR馬喰町駅の通路と、直結する「浅草橋交差点下地下道」(国土交通省管轄)で開催する予定だったが・・・

「『アート作品』に対し場所使用と掲載許可が出たのですが、一部の作品は国土交通省から『広告』とみなされ掲示不可と判断されてしまいました。そこで急遽鳥山さんが駅長室のドアを叩き交渉をはかり、駅長の裁量で使用可能なJR管轄の地下を使用することになりました。」

当時の参加者の名前を見ると、現在の国内グラフィックデザインシーンで重鎮ポジションにあたる人々も軒並んでおり、今となれば非常に贅沢な実験場だ。

「bakuroAD2004」開催時の様子(浅草橋交差点下地下道にて)。一部作品は「アート」として掲示が続いた。

「bakuroAD2004」開催時の様子(JR馬喰町駅地下通路にて)
写真引用:bakuroAD2004

クリエイターのみで完結しない、地域住民との共同作品も現在残っている。2003年にはデザインユニット「ララスー・デザイン(Lallasoo Poopo Lab.)」が都立一橋高校の美術部員とともに校門と校内壁画を共同制作した。CETで唯一現存する屋外作品であり、20年前からペンキの発色も劣化せずきれいに残る貴重なものだ。

2006年に開催されたイベント「アガタホール」もあり、アガタビル地下はCETにとって象徴的な会場となっていた。現在は「アガタ竹澤ビル」地下1階にて武蔵野美術大学が運営する「ギャラリーαM(アルファエム)」として、前衛的かつアカデミックなアートを紹介する場になっており、何かしらの「におい」が引き継がれているようにも思える。

「ギャラリーαM」が入居する「アガタ竹澤ビル」は、異なる所有者による区画が同一建造物に存在する奇妙な作りになっている。
会場を「アガタホール」と題し、当時もアバンギャルドな展示を行った。
写真引用元:CET06(2006年)

人が集まり始めた街、CET終了、その先へ

約8年間の短い歴史のなかで、CETは一旦「CET06」(2006年)を大幅に縮小して開催している。出展作家や作品のクオリティを万全にフォローできる環境を整えることが主な目的だったが、この間、それまでのCETの動きが功を奏してかエリアには人が集まり、借り手がついた場所が増え、徐々に使用可能な場所が減っていた。2008年には「空き空間」ではなく既存店舗やオフィスが会場になり始め、佐藤さん曰く「もう(屋内空間は)お役御免となったようなところがあり、CET終了を検討し始めた」とのこと。CETは屋外に舞台を移し、夜の路上で映像作品の投影やライブペイントを施すイベントも開催するようになる。
例えば2020年東京オリンピックのロゴも手がけ、CETに2004年から継続的に参加していた野老朝雄氏は、当時路上でライブペイントを実施。この頃にはすでに、現在の作風に繋がる制作ルールが見られる。

野老朝雄氏による路上ライブペイントの様子。「道路に蝋石で落書きするという子供の頃の遊びを大人がやったら?」
という発想を起点に制作した。写真引用元:CET-TRIP – WINTER MARKET(2009年)

この例に限らない話だが、CET全体では自治体関係者や警察とも連携し、道路使用許可申請も行ったうえで各種企画を実施。シミズさん曰く「常にギリギリ合法であるやり方を考えていた」とのこと。
2009年には、数日間という短期ではあるがこれまでのCETを振り返るシンポジウムや回遊ツアーなどを開催する『CET-TRIP』が実施された。さまざまなメディアによる取材や掲載も相まって、『CET-TRIP』の告知を行うとインターネット上または印刷物のマップに来場者が能動的にアクセスして出かける、という状況ができた。

「『CET-TRIP』は通常のCETと異なり、このエリアに根をおろして活動する人々を主役にするという思いで始まりました。『それぞれの店舗やオフィスなどに行くと何か起きている』というスタイルです」(シミズ)

同年、佐藤さんのもとに旧千代田区立練成小学校跡地を拠点にしたアートセンター『アーツ千代田3331』立ち上げの相談が入る。これを機に2010年秋に開催された最後のCETは3331も会場の一つに含めて実施。Asylの事務所も3331に移転し現在に至る。
CETからバトンを引き継ぐかのように始まった同施設は、2023年春、施設の大規模改修工事を機に退去することが発表されている。いずれの活動も、東東京エリア周辺の土壌性があったから生まれるべくして生まれたものと言える。

後編記事では、馬喰横山エリアの土壌性にも触れながら、CETの特異性の核心に迫ります。

編集後記
「場所や人を深掘りして発信していく」という点でCETとさんかく問屋街アップロードは似ているが、それをリアルな場所で多くの関係者とともに自然発生的なムーブメントとなったCET。CETメンバーのつながり、世代特有の実験精神、そして場所の利用交渉に尽力した鳥山和茂氏などの存在も大きいのだろう。小さな街区が密集し、既存の余白=空きビルからインスピレーションが生まれ、クリエイターがそれぞれの場所に集まった結果、同時発生で多中心性のある合法的占拠がうねりとなり、「匂い」を生み出したように感じる。(勝亦優佑)

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