“外”を経験したふたりの視覚/視点、問屋の価値の広げ方

▽04 外”を経験したふたりの視覚/視点、問屋の価値の広げ方

小売りを基本的にしない問屋さんの集合体である日本橋横山町馬喰町問屋街は、閉ざされた聖域とも言えます。これまではそこに関わる人が主に足を踏み入れていた。しかし、そんな聖域の結界が少しずつほどかれつつあります。今回は、日本橋横山町馬喰町問屋街の歴史を繋げる2名の当事者に話を聞きました。共通するのは、“外”での社会人経験を経て、実家の家業を継いだこと。だからこそ、過去に縛られ過ぎない取り組みが行えるようです。


聞き手:勝亦優祐
撮り手:ナオミ サーカス
書き手:大隅祐輔


悪い意味で分かりやすい場所

300年以上続く歴史をもつ日本橋横山町馬喰町問屋街には現在、50近くの問屋さんが軒を並べています。中には17世紀に創業した問屋さんもあれば、比較的歴史が浅い新しい店など様々。未だ、日本最大級のファッション問屋街となっていますが、入れ替わりがありながら、その価値が維持されてきたのです。

無論、問屋さんの中でも入れ替わり、世代交代が起きています。娘、息子が代を受け継ぐ、世襲制が基本ではありますが、学生を終えた後、そのまま家業に就くことが絶対ではなく、他の企業に勤めてからという方が実際は多いそう。今回はそういった人たちのお話です。日本橋横山町馬喰町問屋街に密着/接し続けていたわけではない次なる当事者は、この街をどう見ているのか。

まずパソコンの扱い方指南からスタート

右が丸三繊商の代表、村上信夫さん。今回も勝亦丸山建築計画の勝亦優祐が、独特な丸三繊商の小上がりにて話を聞きました。

ひとり目は丸三繊商の代表、村上信夫さん。同社は明治32年(1899年)創業で、事業の皮切りは栃木県の宇都宮。元々は糸卸をしていて、戦後に拠点を東京に。そこから和装の肌着などを扱うようになり、現在はお祭り関係の衣類がメイン。お客さんは全国各地にいて、日本のお祭り文化を支えている存在です。ただ、村上さんは少し笑いながら「入社する前は何屋か、全く知らなかった。ざっくり、呉服問屋なのかなっていうイメージをもっていたくらい」だったと話します。

「家が世田谷にあったので、実はこっちの方に来たことすらなかったんですよ。だから、勤めるようになる前は興味関心が、かなり薄かった(笑)。元々、コンピュータや設計が好きで、丸三繊商に入る前はシステム業をやっていました。でも、その業界の悪いところって、ある程度の立場になると、管理職になってしまい手を動かすことがなくなるんですね。僕も例にもれず、外国の方が部下に入って、当初の希望から段々と変わっていってしまった。そこで転職を考えていたところ、丸三繊商の当時の専務に手伝ってみないか、と誘われて入社しました。興味もなかったし、何屋かもあまり分からなかったのですが、パソコンを導入していたものの、その基本的な使い方すらままならない状況だったので、そこを改善するところから僕の仕事はスタートしたんです」

丸三繊商の店内。たくさんの柄の鯉口シャツなどが並ぶ1階(上)と帯が積まれた2階(下)。丸三繊商の店舗建物は3階から上が倉庫になっています。

“商売をされている方であれば、うちは全部受け入れます”

村上さんが何も知らない状態で入社したのが2003年(ちなみに、その数年後、丸三繊商の代表に)。その時、一番驚いたのが「問屋なのにも関わらず、店舗を持っていたこと」だと言います。確かに、一般論で言えばメーカーからの委託を受け、商品を店舗に渡すパイプ役である問屋には店舗が要りません。倉庫とメーカー並びに販売店に対する窓口さえあれば良いのですから。

「元々、この街の問屋は現金問屋で、現代ではキャッシュ&キャリーって言われる、現金を払ってそのまま持って帰ってもらう商売のスタイルでした。店舗があるのは、その名残だと思うんですが、今は出荷も多いわけで。となると、店舗の役目が薄れてくる。でも、店舗があるBtoBの問屋が並んでいるなんて、おかしな街でしょう? 入社当時も今も、効率だけを求めると店舗は要らないかもなと思いつつ、それをただ潰してしまうと街の個性がなくなってしまいます。さらには店舗があると思わぬことが起きたりするんです」

長野県の諏訪で7年に一回行われる御柱祭で着用される法被。藍染の刺し子で作られている、上代で4万円近くもするオーダーメイド品。

日本橋横山町馬喰町問屋街の街区内、その周辺にホテルが増えたこともあり、コロナ禍以前はよく外国の人たちが丸三繊商を飛び込みで見に来ていたそう。ただ、小売りはしていないため多くは断らざるを得なかったとも村上さんは言いますが、稀に海外のバイヤーの方が買い付けに訪れてもいました。

「今はコロナのせいでさっぱりいなくなってしまいましたけれども、以前、モンゴルの方が買い付けにいらしたことがありましたね。向こうでは日本の帯がブームになっていて、たくさん買っていかれたんです。海外であろうが、購入する数が一点だろうが、お店をやっている、商売をされている方であれば、うちは受け入れます。何にせよ、僕はこの街に色んな人が集まってくれれば良いと考えています。そのモンゴルの方の例を思い出すと、店舗による可能性はやっぱり捨て切れないかとも思ってしまいますね」

2年間、“外”で働き、身に着けた武器

左が上田嘉一朗商店の上田謙一郎さん。32歳という若さながら、デジタル上での販売などを主導しています。

今回はもうおひと方ご登場頂きます。和装を中心に扱う総合ファッション商社の上田嘉一朗商店(大正9年(1920年)創業)でデジタル事業部長を務めている、若き5代目の上田謙一郎さんです。上田さんも村上さんとほぼ同様、家業のことはあまり分かっていなかったと言います。「幼い頃のイメージはお父さんが社長をしている、くらいで具体的に何をしているのかは分からない。問屋と聞いても少年ではあまり想像がつかない、靄がかった存在」だったそう。

「コンビニに置いてある商品を作っている、とかだったら説明もしやすいんでしょうけど、さすがに幼い頃の頭だと誰に対して何を売っているのか分からなかったですね。家が日本橋横山町馬喰町問屋街から遠いところにあったので、お祭りに参加しても知らない土地に遊びに来たっていう感覚。ただ、上田嘉一朗商店への入社を決めたのは割と早くて、高校3年生の時でした。その理由は業態どうこうとかではなく、親が社長だから、それを継げば自分も社長になれるんじゃないかっていう安易な発想から(笑)。でも、さすがにいきなり継ぐっていうことになると、社会人経験が全くない上に、視野が狭まってしまうのではないかという話になり就職活動をしました」

上田さんの就活時期はリーマン・ショックが起きた翌々年。まさに就職氷河期真っ只中でかなり苦戦をしたそうです。ようやく受かったのが、業務用エアコンのメンテナンス、分解洗浄を請け負う会社。そこから激務が始まります。配属先は大阪。難波の街の飲食店などを片っ端から回り、1日50件ほど飛び込み営業。超体育会系の仕事を続けたおかげで、上田さんは人格が変わったと言います。

それまではご本人曰く「人の目を見て話ができないくらいの人見知り」。それが半ば放り出される形で、人と対峙し交渉をしなければならない立場になった。よく習うより慣れよ、とか、泳げない人はプールなどにとりあえず入れてしまった方が良いといった乱暴なことを言う人がいますが、上田さんはまさしくそんな感じだったと言えそうです。自然なトレーニングを経て、「理論的に喋る」武器を手に入れた上田さんは、その会社での2年間の就業を経て2014年、上田嘉一朗商店に入社します。

“ウェブサイトを開設したことで、思わぬところから問い合わせが来ました”

問屋さんというよりも見本市のように商品が整然と陳列されている上田嘉一朗商店の店内。
ジャンル問わず、ファッション関連のアイテムが豊富に展開されています。

「最初はやはり何もかも分からなかったんですけれども、街の人や社内の人と話すうちに段々と輪郭が現れたというか。考え方、商売のやり方を知って、面白いなって思ったことがいっぱいあったんですね。良いか悪いかは置いておいて、うちにはすごく異質なものがあると思ったんです。それを「小売りできない」というバリアで囲ってしまっている。だからこそ生き残れているとも思うんですが、知らしめていかなければならない必要性も感じました。それが、これからの問屋の在り方として、良い試みなんじゃないかっていう憶測がありますし、とにかく根気強く続けていきたい。そういったモチベーションを保つことも、前の会社で学んだことかもしれません」

新しい試みであるデジタル事業部が立ち上がったのはおよそ2年前。商品を一覧できるウェブサイト(https://uedakaichirou.ocnk.net/)やバナーの制作は何と、上田さんご自身で行っているそうです。すると、これまでお客さんではなかった方から問い合わせが来るようになったと上田さんは言います。

華やかな着物の帯がずらりと飾られているフロア。

「ウェブサイトを開設したおかげで、テレビ局や飲食店など、ジャンルが絞れないくらい色々な方から予想以上に問い合わせを頂くようになりました。うちの商品を載せているだけと言えばそうなのですが、ウェブサイトからダイレクトに連絡が来るんですよ。もちろん、より外に開いていくためには足りない部分があると思っています。未だに問屋という枠にとらわれ過ぎてしまっているというか。ただ、今お話しした問い合わせは、磨けば光る原石がまだまだあるんだという証明にもなったと感じているんです。こういう成果があると、益々楽しくなってくる。できるだけ長く会社にいたいと思ってしまうほどに(笑)」

村上さん、上田さんのお話に共通するのは、半ば閉ざされている問屋の世界に風穴のようなものをちょっとでも開けてあげれば、どんどん新しい風や光が入ってくるという点です。「各問屋さんと親和性が高そうな、例えばクリエイターの方が空間の一部を間借りするということが起きると、より風通しが良くなってくるのでは」と勝亦はまとめます。

「以前、他の問屋さんに話を聞いた際、売り場面積を少し縮小したいということが多く挙がっていました。であれば他の、外から来る人に開いても良いかもしれない。ただ例えば、空いた一階のスペースにコンビニを入れるっていうのだと面白くない。問屋さんも多様だから、それぞれと人間的な感覚が合う人に一部分だけを貸して、時々、コラボレーションをして新しい商品を生み出したりする。リソースであるスペースを上手に活用できれば従来の顔、つまり日本橋横山町馬喰町問屋街の個性を失わずに、これまでとは異なる価値が見出せるようになるんじゃないかなと思うんですよね」

守らなければならない既存のニーズを守りつつ、ちょっとずつルールや見せ方を変えていく。すると一定だった価値に広がりが生まれてくるようです。

編集後記

当たり前なことですが、価値は誰かにとって必要だからこそ生まれます。では、必要としている人を探すにはどうすれば良いか。そのための大前提が情報の公開だと思います。“これ”は“ここ”で売っているよ、と言うこと。さらには、村上さんと上田さんの話をまとめれば、売り方のハードルを下げ、対象を増やすこと。それが良い、とも言いきれませんが、日本橋横山町馬喰町問屋街にとって未知の領域を一旦、受け入れ、ちょっとずつ踏み込んでみる。従来の形を変えずに。おふたりの姿勢、試みには何となく、そんな気概が感じられました。

―編集・大隅